「すべて良し」とは - 二元と非二元、私と本質の私のあれこれ

「すべて良し」とは


オレガノケントビューティー




またまた、引越しのための梱包作業にいそしんでいます(笑)

これは非日常なので、気づきのためのお試しとも言えるわけです。

そこではさまざまに物事が起こり、それに付随して感情や衝動が起こっていくものです。

「ある」とは、それに気づいているだけなのです。

どんなに薄まっていても、感情も衝動もまだあります。

ストレスも分かります。

ああ、これがストレスだ、これが疲れだ、と分かるので気づいています。

逆に言うと、それくらい遠くて認識も薄まっています。



苦しみも辛さもストレスも、衝動や激情さえも

何ひとつ、悪いことではありません。

それらは起こるべくして、ただ起こってきますから。

私たちはこれを知るために、ここに形あるものとして生まれてくることを選んだのです。

ただここに、無明と光明の違いがあります。



無明のうちは苦しみも辛さも自分と思い込んで、そこにどっぷりと浸っています。

だから苦しい、より辛いわけです。

衝動や激情に翻弄されるなら、気づいたときには後悔するでしょう。

何をしているんだろう、自分はダメだ、まだまだだ、とジャッジが入るでしょう。



光明にあるならば、すべては光(エネルギー)であり

起こることは広大な自分存在の内であり

ただ起こる(起こされている)ことを知識ではない部分で、知っています。

そこにジャッジはなく、気づきだけがあります。

それが叡智です。



私たちは、すべてがすべて光であり、本質である自分存在の内なのです。

光明は無明と対立しているわけではなく、それを含んでいるのです。

なので、何ひとつとして否定することはないのですが

無明である限りは、そこに自我であるための苦しみが付きまといます。

それが光明(覚醒)を求めるエネルギーとなるのです。



なので、無明(自我)でも否定はいらないという非二元の概念に従って

このままで良いのだと、何も求めることなく過ごすなら

苦しみから逃れることは決して起こってこないことになるのです。

「求めよ、さらば与えられん」とは

求めなければ与えられることもない(フォーカスがなければ起こってこない)という

ただそれだけのことです。

また、欲は煩悩だからと、もしも否定するなら

覚醒を求めることさえ欲だと、否定されるかも知れません。

ここでもフォーカスがなければ、起こりようがないこととなるのです。



私たちの自我はこれほどに複雑に成り立っています。

この仕組みの巧妙さに気づいたなら、ただ笑うしかないのですが

「すべて良し」とは、これらを含んで了解したうえでの

すべて良し、なのです。

(覚醒を)求めても良し、求めずとも良し。

自我のままに生きても良し、探求が起こってそれに従って生きても良し。

苦しんでも良し、楽しんでももちろん良し。

すべてが〇であり、真我の内懐の中でしかないということなのです。








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